真の健康は「狭い適応」ではなく「広い適応」をすることにある、のかも。
セラピーの世界には、「適応する」という言葉がよく出てきます。
「職場に適応できるようになるために心理セラピーをする」とか、「人間という動物は環境に適応するものなので、適応レベルを上げるために呼吸法を改善したり、トラウマを解消したりする」とか、「適応は必要である」という前提がセラピー業界にはある気がします(一般社会も)。
しかし、カリスマの心理療法家であった、故・吉福伸逸さんは、有機的な人間を社会に適応させる「人間の機械化」のような行為をとても嫌っていたそうです。社会や世界への適応を超えたところにある、人間の本来の存在を取り戻すためにセラピーをされていたのだろうな、と吉福さんのご著書を読んで感銘しました。
既存の社会の枠を超える人が、社会を拡張し、新しい社会をつくるきっかけとなってくれるので、ときに「適応の枠を超える」ことも必要です。起業家、クリエイター、芸術家がしているのは、社会を拡張することなのでしょう。
ただ、社会を拡張することには時間がかかったり、できないこともあります。現実の厳しさとして、「適応」が求められることがあります。
実際、社会や環境に適応できないというのはとても辛いものです。友達がいない、家族がいない、ひとりぼっち、仲間はずれ。この状態になったときのはかりしれない心細さ。私自身にも経験があり、「この世界から消えたい」と思うことが何度もありました。「社会に適応しなくていいよ」というきれいな言葉は、適応できてきた人だから言えるんだ!という疑いもなくはない。人はひとりでは生きていけないのは確かで、「適応させるための、ある種システム的な取り組み」も必要だったりもします。何が善で、何が悪かというのは本当にわからない…というのが私のスタンスです。
そんなことをぼーっと考えながら、心身統合のアプローチの工夫をしていたのですが、「適応」って「狭い範囲の適応」と、「広い範囲の適応」があるなと気づきました。
ボディワークやセラピーでやるべきなのは、「狭い範囲」ではなく、「広い範囲」の適応。そのためには、ボディマインドスピリットの「スピリット」の部分のアクセスが必要なように思います。そして、大きな視点で物事をとらえること。大きな視点で物事を捉えるときには、知識レベルや思考での俯瞰と、体験的な無我の境地、両方があるとより確かなのではないでしょうか。
ボディワークをしているとつい身体感覚だけが尊いようになりがちですが、私は偏りが苦手なので(占星術では、私はすべての要素や価値観を並列に並べる性質があるそうです)、知識も身体も両方必要だなと思う次第です。